自慰について。

うっかりツイッター
mixiにオナニーについての哲学的考察日記なんか書いてましたよ(てへぺろ)
みたいなことを書いたら読みたいと言って頂けて、
それが社交辞令でもなんだかやっぱりおお有難い、
では後ほどブログに転載しますねと言った手前、
やはりここは素直にmixiを開いてオナ日記を転載するのが
責務なのであるけれど、ちょっとmixi黒歴史感に
今の俺の精神状態では耐えられそうにないので、
元気になって転載できるその日まで、
「今」の俺が考える自慰についての新たな文章を
読んでお待ち頂きたいみたいなそんな臆病な自尊心が綴る文章がこちら。


まあ確実に言ってることはそんな変わらない。
童貞じゃなくなったってそれで世界は変わらないし、
地震津波原発の爆発や今もどっかで起こってる戦争だって、
「世界を変える」ことはなかった。
そういう中で日常を唾棄しながら生きる。
非日常の悲惨に喘ぐ人々を尻目に日常を唾棄して生きる。
自分は絶対に「そっち側」に行くつもりなどないのに、
そうして日常の退屈を嘆いて生きる。
これは自慰というよりむしろレイプなのでは。


なんてことを思うけれどしかし。
日常が紛れもなく「退屈なもの」であるというその事実は重い。
俺の全存在を押し潰しそうなほどに重い。
何をやっても結局繰り返しに思われてしまう。
寝て起きて働いて寝て起きて働いて寝て起きて働く。
そうした「制度化された」生活の中に
「生きる喜び」を見出すのは俺にはひどく困難だ。
むしろ生きてるだけで死にたくなる。
もしもそうする以外に、生きる方法がないのであれば。
だからこんな風に自慰に耽る。
そこには成長がないという。
もっと他者を見詰めろという。
言葉を交わせという。
自分を省みろという。
けれど。
その果てに理想化された人間の像自体が、
単に「社会」に最適化されたプログラムなんじゃないのか。
その像を自らの脳内にインストールして
奴隷の幸福を味わう以外に、
この世界には本当に何もないのか。
ここではないどこかという可能性は。
そこを目指す熱量を幼いと笑って居れば事足りるのか。
そうして腹を満たすのか。
おまえらは。
俺は。
どうなんだ。
ちくしょう。