ひたすら遊ぶハタラキもせず

いやあハタラキもせずに青春延長戦死ぬまでやってるつもりですか?
と言われてもやめらんねぇのが旅!ってやつですね。






という訳で火曜の朝に突発的にバイトを止めた勢いのままにチャリで西へ下り、
現在は広島は尾道に来ています。
海が見える山の上の入り組んだ道の途中にある、今にも崩れ落ちそうな旧い家。
皹の入った煉瓦、あるいは錆びたトタン屋根。
そういう「終り」を感じさせつつもそこにあるものに惹かれる。
まあ端的に言って幼年期の俺にトトロが及ぼした影響は思いの外大きかったと申しましょうか、
呪術師ハヤオ・Mに掛けられた呪いは大人になっても、否、大人になればこそ
解けないものなのであります。
子供はたぶん、何も失っていないのだろう。
子供はただ、「これから失う可能性」だけを持って生きている。
それは裏を返せばまだ何も手に入れていない、
「これから手に入れる可能性」だけを持って生きているということでもある。
だから子供は過去を見ない。
自分が赤子の頃を思い出してみても仕様がない。
子供は未来だけを見ている。
やりたいこと。
なりたいもの。
行きたい場所。
可能性を現実とするその場所を求めて生きている。
子供にとってはだから、歴史的な遺物というものは価値がないのだろう。
自分を振り返れば分かるが、中学や高校の修学旅行で行った神社仏閣には何の興味も湧かなかった。
子供はそれよりもゲームやアニメの中に表現されるハイ・テクで未来的な
「都市」的景観に惹かれるのだと思う。
それは、それこそは「自分たち」がこれから築き上げてゆく景色だからだ。
今まで地球上のどこにも存在しなかった景色だからだ。
自分たちの可能性は、そこでこそ試されるべきだと固く信ずる為だ。




しかし大人は違う。
大人にとっては、未来というのはもう殆ど何の意味も成さない。
未来というのは自分があとどれくらいでこの世から消えるかという予測の 尺度に用いられるか、
さもなくば空虚な言葉遊びに過ぎない。
もはや誰もアリの美徳を内面化できないし、
キリギリスを笑えない。
個人の努力では、現実には手に負えないことが多過ぎると知ってしまった為だ。
可能性は、可能性というだけでは最早価値を持たない。
可能性があるという、そのことの「意味」を考えずには居られない。
そして、得られる結論は殆どの場合考える前から決まってしまっている。




さて、それではどう生きようか。
何もかも無意味なのだとしたら今すぐ死んだ方がいいのか。
そもそも意味とは何だ。
無意味とは。
結局誰かがそれを決めているだけじゃないかと言うのなら、
自分でそれを決めることだってできるだろう。
意味があることに価値を見出だしても、
無意味であることに価値を見出だしてもいい。
逆もまた然りだ。
だから悩みというのは実はあってないようなものなのだ。
抽象のレベルで、人はそれほど悩んでいない。
少なくとも俺は。
想像力の及ぶ範囲で、確かに俺は自由なのだから。
ルールは恣意的に決められる。
解釈は無限に組み合わせられる。
問題は、そう問題は、「現実」の環境に対して、
俺の想像力が遮断されているという状況にある。
つまり、生きる意味があろうがなかろうがそれが何であろうが俺は
それを自由に手に取って生きていくことができる。
けれど、俺の想像力は俺の身体性に依存している。
身体を維持しないことには、想像力を働かせられない。
そして身体を維持する為には、想像力をねじ曲げて社会の誂えたルールに
則って「労働」に勤しむことが最も手っ取り早く、かつ現実的な選択肢としてある。
ここにこそ問題がある。
つまり自分が無価値と思うものに、他ならぬ「自分自身の価値」を保つ為に
従服せねばならぬという塗炭。
これこそが、まさに個人の生にとって耐え難き痛苦をもたらす。
そうした苦痛に耐え兼ねればこそ、
個人は「人生に意味(価値)などない」という冷笑を用いることによって
それでも「生き」ようとする。
つまり虚無主義者の虚無は、真実の虚無ではなく、
むしろ内面に宿らせた豊潤な世界を、外界からの圧力によって潰してしまわない為の、
精一杯の虚勢、言うなれば鎧であると言える。
その鎧をどう外して他者と「真実の」交流をしていくかということについてのみ
世人は口喧しいが、そうした鎧を着込むことで真実生命を保っている人間も居る。
それを「イケ好かない」と断罪することは、
呼吸器を用いて生きている人に「それは自然でないから今すぐ機械を停めろ」
と言っているに等しい暴力だと俺は思う。
だから、自意識を拗らせたんなら誰に何と言われようと最後まで拗らせ続ければいいと思うよ。