強さとか弱さとか。

最近、というか殆ど物心ついて以来ずっと考えてきたことが、
つまりは「強さと弱さ」についての問いであったのだと、最近気付いた。
何が強さで、何が弱さで、といった哲学的な議論には興味はない。
いや、それは少し強がりだ。
実際のところ興味はある。
できればそれを突き詰めたい。
けれどそんな悠長な時間はないのだ、
と割り切ってしまう程度には俺は怠惰で、現実主義的なのだろう。
個人が哲学的探究に勤しむ間にも、
世界中で悲劇が進行している。
自分が出遭う悲劇もあれば、出遭わない悲劇もある。
誰かの悲劇に一々共感はしていられない。
精神的余裕も時間もカネもやる気もない。
だから考えたい。
考えたいことは、唯一つ。
それらの悲劇が「人間の」生活空間で起こる以上は、
つまり社会において悲劇が起こる限りにおいて、
それは「政治的」な帰結であるということ。
この原理的な事実に照らして、
強者と弱者の政治的関係について考えたい。
ここはブログだから、誰にも遠慮せずに書く。
「見られるべき自己像」という勝手に妄想した理想に遠慮して、
賢しらぶったり、変に冷笑的になったりもしない。
好きなものは好きで、嫌いなものは嫌いだと、
考えたいことを考えたくて、考えたくないことは考えたくないと書く。
理想があるなら理想があると、素直に書く。
これは一つのリハビリだ。
日常に埋もれて鈍磨した感受性を、
俺はこうして文章を書くことで磨き直したいつもりで居る。
それが唯一の目的なら、
誰にも、自分自身にも、遠慮なんかしてる場合じゃない。


そういう訳で、ちゃんと文章を書いてみようと思う。
今まで逃げ続けてきたことにちゃんと向き合おうと思う。
人生に一つくらい、言い訳せずに立ち向かえるようなものを持ったっていいだろうと思った。
ツイッターにもURL載せたし、今までよりはもしかしたら見てくれる人も増えるかも知れない。
だから、誰にも遠慮なんかしないけれど、
リーダビリティ、可読性ということについては、
これは何よりも念頭に置いて書く。
そうでなければ意味はないのだから。
では、本論。


まずは理想について。
これをはっきり断っておかないと、
いつまでもぐるぐると耽美的に思索に耽るのみで
一向に有意な議論を展開できない。
だから理想ということを言えば、
それは強者も弱者も居ない世界が実現できるなら一番いい。
けれどこれでは理想が余りにも抽象的で、何ら意味を持たない。
実現の為に努力しようのない理想は、理想としての価値がない。
かと言って、「強者」「弱者」というカテゴライズを自明のものとし、
それを前提とした世界観で物事を語るというのは、
今現に存在している「強者」「弱者」という頸木(くびき)を再生産し、
現状を追認することになってしまい、自由とは程遠い。
強者と弱者という関係は、常に流動的であり、
その瞬間瞬間の関係の内に浮かび上がっては消えてゆく泡のようなもの、
であると個人的には思う。
と言うより、そう捉えた方が確かに「弱者」は救われる。
誰だって、自分が絶対的弱者であるなどとは思いたくない。
自らの置かれた弱者的位置付けは、この社会における政治的関係の帰結であり、
それは自らが政治的能力を身に付けることによっていつでも改変可能であると、
自分には他者に対して相対的優位な立ち位置につく能力があるのだと、信じたい。
そうでなければ生きていけはしないだろう。
少なくとも、「社会」の内においては。
だからこそ、時に弱者はあらゆる「言葉」で以て
強者によって組み敷かれた「強者/弱者」という関係性を破壊しようと努める。
秩序を無秩序に還元しようと努める。
そうした営みは決して無駄ではないし、
そうした努力によって得られた新たな知見、視座というものの価値も計り知れない。
しかし「そうは言っても」。
そうは言っても、俺にはやはりこの世には強者と弱者が存在しているように思えてならない。
その関係は明らかに自明ではないし、政治的で、恣意的だ。
だからこそ覆す必要がある。
そうした秩序が誰かを追い込むのであれば、
そんなものは破壊されるべきだ。
けれども。
自分が「強者」にカテゴライズされた時、
それでもその秩序を「破壊する」側に回れるかどうか。
これが、俺が俺自身に問いたい、最も基本的な命題である。          (つづく)