価値観の多様化

現代社会は価値観の多様化が進んだ社会だと言われる。
巷にはあらゆる形、色、デザイン、機能を持った
商品が溢れ、消費者はそれらの中から
適宜自分の価値観に最も適合するものを選べばいい。
それは非常に「便利」だし、「心地いい」。
恐らく大半の人はそう感じ、
だからこそそうした社会が実現してきたとも言えるだろう。


けれど私自身はどうかと言うと、
あまりこうした社会の恩恵には与っていないと感じる。
たとえば私はファッションに関して無頓着だ。
どんな服装をしても気に掛けないし、
ある日突然髪型をモヒカンにして大学に行ったりする。
けれどそうした態度はそれ自体として、
つまり「ファッションに無頓着である」ということがそれ自体として
社会的な記号として機能し、
他者に「メッセージ」を発信するということがある。
そしてそのメッセージは決して私が意図的に発信したものではないが、
受け手により恣意的な解釈を受ける。
即ち私の態度は「無意味」(でありたい)の一言に尽きるのだが、
その「無意味」自体が、「良い」か「悪いか」といったような
社会的評価を受ける。
私にはこれがとても居心地が悪い。
意味の分からないもの、虚無、隙間。
そのようなものは、存在すらしていてはいけないのだろうか。
何故すべての存在、あるいは不在は対象として解釈を受け、
すべての隙間は(意味によって)埋められなければならないのだろうか。
価値観の多様化と一口に言うが、
そこには不可視の前提がある。
即ちそれは「意味の多様化」である。
「意味のあるもの」であれば、
それがどのような意味を孕んでいても良い、
という意味での「多様化」なのである。
最初から無意味、意味の不在というものを認めている訳ではない。
意味の不在というものは、
社会の価値観がいくら多様になったところで
(少なくとも現状は)「多様性」の内に数え上げられない。
無意味な存在というものは、
多文化社会においても最後まで迫害される「価値」の一つだろう。
何故なら、現状において多文化というのは
即ち「商品」によって担保されているからだ。
日本の多文化社会というものは、
何も政治的・文学的なテーマとして
社会における主流派と少数派の溝を如何にして埋めていくか
ということが考えられた結果ではなくて、
単にグローバル経済が浸透するにつれて
その加速度を増した消費社会化がもたらした、当然の帰結であると言える。
言い換えるなら、「商品的価値」はいくら多様であっても良い。
しかし政治的、文化的価値については多様性を認めないというのが、
現下の日本社会に通底する社会的価値観なのではあるまいか。



集中力切れたのでまた。
レポート書かなきゃ。