いくら本を読んだってどこへ行ったって

俺が俺で居る限りはどうにもならないんじゃないか、
なんてふと思う時がある。
けれど「何をしていても」という訳じゃない。
そう、問題なのは「行為」の欠如だ。
俺は本を読んだってどこへ行ったって、
結局いつも何もしない。
だからなんだ。
だから、どうにもならない気がするんだよ。
わかってる。
だから、結局のところ、
何かしなくちゃ。




「主体的」に生きられない限り、
この世は生き続ける限りにおいて地獄なんだ。
主体なんてものが幻想でしかないとしても、
そんなことは俺が主体性というものを
「どう捉えるか」ということには何ら関係ない。
結局のところ、信じられる根拠なんてものを
外部に求めていたって駄目なんだ。
あの人の言葉は信じられるけれど、
この人の言葉は信じられない、
なんてのは個人の主観的判断でしかなくて、
究極的には誰の言葉だって等しく無根拠なんじゃないか。
そこに「根拠」を与えているのは、
他ならぬ自分の「判断」だ。
誰の言葉だって自分がそう信じない限り嘘なんだ。

誰かに認められれば、
それを根拠として自らを認めることができるんだろうか。
できる訳ない。
俺は俺を認めてくれる人、可愛がってくれる多くの人たちに
出会ってきたけれど、結局彼らからの是認は
俺自らの是認には繋がらなかった。
じゃあ好きな人に認められれば?
わからない。
それは経験がないから。
けれど、きっと、そうはならないだろう。
いくら「彼女」が俺を振り向いてくれたとしたって、
そうした状況を飽くまでも俺は
「客観的に」捉えるだろう。
彼女が本当に俺に好意を寄せてくれたのかどうか、
そうしたことは究極的には俺には計り知れない、
彼女の言動や態度などの「痕跡」をたぐって、
どうにか事後的に、自己都合の「解釈」を重ねて
それで自分を納得させてるだけだ。
だから、そこは結局「信じる」しかなくて、
それをできない臆病な俺は、
彼女が俺を認めようと認めなかろうと、
そうした疑心暗鬼に溺れる自分を許すことは、
一生ないのだろう。





そういう地獄から抜け出したいなら、
やっぱり信じるしかないんだ。
信じることは尊いことだって、
いつか言えるような人間になりたい。