メタ・プレイヤー同士のバトルロワイヤルを言うに事欠いて「コミュニケーション」だなんて呼ぶのはよせよ。

ゼロ年代の想像力」は
「オタクのコミュニケーションスキルの低さ、或いはそこからの逃避」
について「それでいいのか?いや駄目だろう」と
論破しはしたけれども、
では一体どのようなコミュニケーションが理想なのか、
社会の中で空気を読み合うバトルロワイヤル、
ギャルやギャル男(こういう言葉はまだ存在しているのか、或いは通用するのか)、
リア充たちの軽薄であるが故に強固な
コミュニケーション・ネットワーク、
まさに網の目のようなソレ、
から抜け出して(真の)コミュニケーションを実践するには
どうすればいいのかというところにまでは、
疑問の矛先を向けていなかったような気がする。
俺はオタクは嫌いだけどリア充も嫌いなんだ。
オタクじゃいかん、と言われりゃ納得するけど、
かと言ってリア充になれと言われてもそりゃ無理だ。
俺が求めるのは常に第三項。
「未だここにない」選択肢。
今あるものは、全部嫌い。


メモ
お笑い番組化するコミュニケーション
・ボケとツッコミのロールプレイ
・それらを客観的に観察していた俺は、
と言うより「当事者でない」位置に居たからこそ
その構造が分かり、
構造が分かりつつも確かに彼らのコミュニケーションの軽薄さを
「便利だ」と思った。
・例)
A「俺六時五十二分だと思ってたらさ、七時五十二分だった。時間間違えた。
 もう間に合わねぇよ」
B「もう間に合わないな。それで一旦寝て・・・」
A「そーそー一旦寝て、起きてから考えようと。ってオイ!
 起きたらもう何もねーわ」

という会話を耳にしつつ、
俺は「開発援助の社会学」なんかを片手に、
と言うより真横で笑ってるのを悟られないように
眉間にシワを寄せながら本に顔を埋めるような格好で
読んでいたのだが、まあ頭に入らない。
彼らのこの「ボケ」と「ツッコミ」の構造は
まさにテレビバラエティーのそれだ。
彼らはそれを日常生活において実践している。
それこそが彼らの「リアル」であり「ナチュラル」な
「コミュニケーション」なのだ。
それはもう現実として。
彼らはそこに対して息苦しさも違和感も感じていないのだろう。
ただ楽しけりゃいい。
だから何だって食い物にする。
何を材料にしたっていい。
とにかく「面白」ければ、
場が和めば、
空気が読めれば、
それでいいんだ。
それこそが「正しさ」なんだから。




俺は確かに彼らの「コミュニケーションスキルの高さ」を尊敬する。
けれど俺はそんなもの要らないし、
それを要求、または押し付けてくるこの社会から、
出たいって言ってんだよ。
落伍も超越も殆ど同義だ。
どっちでもいいから俺は降りるぜ。