閾値

何事においてもそうだろうけれど、
閾値というものがある。
いきち、または、しきいち。
俺はまあ、厳密な辞書的な意味というよりは、
単に「限界」みたいな意味で使っているんだけど。
そしてそれを超えるともう何だかどうでもよくなってくるというような。



昨日はこのところの悩みが遂に閾値を超えた。
そんな感触があった。
もちろん答えなんて出ないけれど、
少なくとも今、俺はもう昨日までのように悩んでいない。
要するに、そんなもんだ。
人の悩みというのは、
悩み悩んだ末に何かしらの解が出るというようなものではなく
(そんなことは有り得ないだろう)、
つまり悩みというのは常に過程であり
そこに何かしらの結論が用意されているという類のものではなく、
悩みが閾値を超えると、
これは機制というのか本能というのか、
とにかくそれ以上は悩まなくなる。
ある一定の段階まで悩みが達すると、
自分が何故これほどまでに悩んでいるのかということが分からなくなってくる。
謂わば悩みの「目的」を見失う。
悩みそれ自体が自己目的化していたのではないかというような感覚に襲われる。
実は自分が今までこれだけ悩んでいたことというのは、
この宇宙の定理や森羅万象からすれば
実に取るに足りないことだったのではないか?
いいやそうに違いない、
と、無根拠にこう思えてくる。
そしてそれはやがて確信に変わる。
かと言ってそれは、
今までの自分の「悩む」という過程の「価値」を
即座に無効化するようなものではない。
そうではなくて、
悩むという行為の果てに、
具体的状況は何一つ変化せずとも、
悩みそれ自体が無効化される境地に辿り着くということである。


悩みに明快、或いは明確な「解」は存在しない。
「答え」と呼べるようなものが存在するとするのなら、
それはこのように悩みが閾値を超えることによって
むしろ悩みの過程から解脱し、
前進へのエネルギーへと転化させることが
できる状態をこそ呼ぶのではないだろうか。