コミュニケーションの必要性について。

コミュニケーションの必要性って、
何なのだろうかと思う。
ポストモダニズムだかニヒリズムだか知らないが、
とにかくそういった類のものに骨まで冒されてる俺としては、
ついついそういうことを考えてしまう。
だけど本当は、「必要性」なんか考えるまでもなく、
そこにあり、ただ「そうするだけ」という類のものなんだろうけど。



昨日の夕食で定食屋でマーボー茄子麺を頼んだら
マーボー豆腐麺が出てきた。
マーボー茄子麺頼んだんですけど、
と言ったら、
マーボー茄子って言いましたか・・?すみません、
と何とも釈然としない謝られ方をした。
俺は豆腐が食べられないのだけれど、
作り直してもらうとその分の食材を無駄にすることになるから
仕方なく食べた。
なんつうか、
そこで「客なんだから」とか「金払ってるんだから」
何でも自分の意のままにできて当然だと
思うようなみっともない客の態度、
贅沢病というやつに俺は心底辟易しているので、
自分だけはそういうみっともない人間になりたくないと
常に意識しながら生活している訳だけれど、
でもそれで働いて金もらってる人間の態度ってのも勿論ある訳で。
そこんところの塩梅ってのが難しいやな。
でもきっとあの店員は自分が聞いたのは
間違いなく「マーボー豆腐麺」だったって思ってたんだろうな。
俺は間違いなくマーボー茄子麺と言ったけど。
でもそれは互いの主観の記憶の相違ということで、
それを客観的に証明する手立てがない訳だから、
何はともあれ店員の側が謝るというのが、
この資本主義社会では「賢い」方法なのかも知れない。
でも飲食店でバイトしてた時に
団体客の一人が同じものを三つ頼んで、
その他にも一人ずつ注文してたから
おかしいなと思ってちゃんと
「三つでよろしいですか?」と確認したにも関わらず
出したら「こんなに頼んでない」と言われて
店長に激怒されるということがあったから、
店員の釈然としない気持ちというのも分かる。

で、そうしたコミュニケーションのギャップを埋める為に、
ここは一つこれだけ技術も進歩したのだし、
全てを機械化してしまって、
料理は全部ボタンを押して注文、
そしてロボットが正確な茹で時間、焼き時間で
作った「均質な」料理を
客に出せばもうそれでいいんじゃないのか。
そこで注文通りのものが出なければ
自己責任なんだからもう諦めてそれを食べるしかないし。
でも機械の故障ってのもあるからなぁ。
そうした時に、
結局「担当者呼べよ」ってことになって、
コミュニケーションの「危険性」は回避されない。
というか、
そこまで何もかもシステム化、合理化して
均質化する社会というもの、
都市生活というものに対してこそ、
俺は怒りの矛先を向けている筈なのだけれど、
でもたぶんこういう社会っていうのは
俺の杞憂ではなくて、
本当に近い将来実現するんじゃなかろうか。
そしてそこに暮らす人々はそれを
「便利だ」としか思わずに、
何の不審も抱かずに生活するんじゃないか。
そういうことは、現実にできつつある。
他者性との接触
コミュニケーションを回避して、
データベース化された社会から
適宜自分の欲する、必要な情報だけを
抜き出して消費する、
同じ趣味趣向を持った者同士の
狭いネットワークの中だけで
自己完結する関係性の中に生きる。
そうしたことは、
技術の上ではできるようになりつつある。
だけどそれが果たして幸せかどうか。
「人間」にとって、
果たしてそれは理想と言えるのか。



そういうことを考えた時に、
やっぱりどうしても俺は日本では生きていけないだろうという気がする。
日本人を愛せない人が他国人なら愛せるのかというのは
勿論問われるべき問いとしてあるけれど、
でも日本と他国では確実に違う状況や、
社会というものがある。
社会が違えば、
そこに暮らす個人の価値観だって違うし、
異なる関係性を築くこともできる。
だから俺は、
逃げるんじゃなくて、
いや逃げるだけではなくて、
もっと能動的に外国を目指す。
これは俺が「生きる」為に必要なことなんだ。