ちょうどうでもいいことをかく。

昨日コンビニに行って
月間ヤングマガジンだかを手に取って
エロマンガ家の宮崎摩耶が描く
「ミニマム」ってエロマンガ(?)を読んだです。
いやエロマンガなのかどーか知らんけども。
別にそれを目当てに雑誌を手にした訳ではないけれど、
携帯を持っていた頃に無料配信の携帯コミックで
色々とお世話になったこともあり、
やっぱりどうにもこう実用性に富んだ絵だったりするもんだから
ついつい見てしまう訳ですよ。
内容はというと、手の平サイズの小さなジョシコーセー(裸の)が、
童貞キモヲタメガネくんが下心を持って学校のパソコンの検索で
エロ画像を漁ろうとしていたら突然
パソコンのディスク挿入口から出てきて、
成り行きで彼女の「大きかった頃」の家を探す手伝いをする、
というものだった。
で、そのジョシコーセーのキャラ設定が
近頃人気の(いや既に廃れているのか?)ツンデレで、
最初さんざん主人公に対してキモイだのメガネだの罵ったにも関わらず
家を探したけど結局見付からなかった時に
「色々迷惑掛けてごめん」と謝ったりするような
「可愛げ」のある女の子として設定されていて、
二話が終わった時点ではその主人公の童貞キモヲタメガネくんと
ツンデレジョシコーセーが友情の前段階みたいな
関係を芽生えさせるというところまで描かれた。


で、ですよ。
わたくし思ったのです。
近頃の男子っつーのは、
女の子と恋愛どころかまともに友情を結ぶ際にすらも、
これほどまでに圧倒的な強弱関係を要するのか、と。
女の子はどれほど強がっていても現実には圧倒的弱者、
限りなく無力な存在として描かれる。
そもそも手の平サイズなのだ。
男に襲われる可能性云々以前に、
踏み潰したらぺしゃんこだ。
そんなか弱い(弱過ぎる)女の子を守る、
同じく弱い(童貞キモヲタメガネ)俺、
という物語に、
共感する読者が少なくとも想定されたから
こうした物語は紡がれたんだろう。
これが等身大の男女の物語であったなら、
どう考えても強弱関係は正反対だった筈だ。
口の悪いジョシコーセーは心底童貞キモヲタメガネを
軽蔑し、関わろうともしなかっただろうし、
童貞キモヲタメガネくんはそんな彼女「ら」に対して
拭い難きルサンチマンを募らせていった筈だった。
両者にコミュニケーションの回路は存在しない筈だった。
けれどもそれがどうだろう。
一度勝気なジョシコーセーが
「可愛いお人形」になったなら、
童貞でキモくてオタクな僕にだって、
彼女と対等に話ができる、
いやそれどころか、
「守」ってやることすらできるんだ!
という男の、それも弱い男の、
その弱さと醜さが結晶したような欲望を
体現しているような作品に思える。
こうした物語に俺は決して共感することはないけれど、
しかし共感せずとも平然と消費するんだ。
そこにはやっぱり病理がある。


「男らしさ」を捨て去ることで
「強い人間」になるという回路を、
男は果たして備えていないのだろうか。
備えていないのなら備えるべきだ。
男らしさは決して「強さ」ではない。
男らしさこそが弱さだ。
だから男らしさ(=弱さ)を捨てることで
強い人間になるということは、
当たり前に可能である筈だ。
男らしさを捨てることで
弱い人間になるしかないのだとしたら、
それこそ男の悲劇だ。
俺はそんな悲劇的な人生を歩むつもりはない。
「今までのやり方」が通用しなくなったら、
もう途端に何もかもできなくなる、
新しいやり方を考えようとしない態度というのは
一体何なんだろうか。
文化をやっぱり作り直さなくてはいけない。
少なくとも自分はこうやって生き抜くんだと、
そう高らかに宣言できる文化というものを
一人ひとりが自分の力で作り出していくべきだ。
それは誰かに作られたものを
消費しているだけでは決して得られない。



本当は俺のザコっぷりを
これでもかと書き殴ってやろうと思っていたけれど、
なんかまともなことを書いてしまった。
うん、でもやっぱ女の子はこわいっすよ。
まともに目も見て、話せないもんね。
だからこういう低俗な文化が生まれる事情は
大変よく分かるし、身に染みる。
でもそれじゃ、ダメなんだよ。