要するに関係性。

近代以前は場所に関係性が規定されていたとするなら、
近代以降の社会というのは、
関係性によって場所が規定されていく社会であると
言うことができると思う。
地縁的、血縁的、農村共同体的関係性が崩れ去り、
各々の場所で、
個人が好き勝手に他者と関係するようになっていった。

その結果としてのタコ壷。
クラブへ行っても満員電車に乗っても
人と人は肌が触れ合う距離に居ながら
心は決して触れ合わず、
互いのパーソナルスペースを侵食し合って、
息苦しさと摩擦だけを生む。
それを一々息苦しくなんて感じていたら生きていけないから、
次第に感受性を鈍化させることによって状況に適応し、
なんとか生き延びる。
それを繰り返し、いつか雨が止むのを待つように、
いずれ命が尽きるのを待っている。
そんな人生はやっぱりごめんだ。
とにかく俺は、ここから出たい。



俺にとっては
家庭<社会<個人
という序列が明確に存在するということが分かった。
俺は個人として、
自分の人生をどう生きてゆくかということに関心がある。
その為には、いつまでも親の庇護の下で
家庭を居場所とする訳にはいかない。
それでは腐る。
成長の否定。
母性的重力に取り込まれたまま、いずれ腐って死んでしまう。
けれどだからと言って、
異性の獲得によって「男になる」という
父性的マチズモの回路を辿る訳にはいかない。
俺は全く新しいやり方で、大人になる必要がある。
男でも女でもなく。
既存の観念に囚われることのない。




何が書きたかったんだっけか。



要するに関係性。
これが重要ということですよ。
誰かと心地良い関係性が築けた場所や社会が、
自分にとっての居場所であるというか、
そこを居場所とすればいいのだと思う。
俺は母性的重力(家族)から逃れたいと思うけれど、
かといって父権的に既存の「社会」に出て行く、
コミットしていこうとは思わない。
思えない。
サバイバルレースからは身を退きたい。
そうした中で、
けれど自立して生きていく為にはではどうすればいいのか。
それを考えた時に、
俺にとっては「最後の希望」として
外国がある。
外国の、「ここ」とは全く異なる社会の中で、
一から関係性を築いていきたい。
希望は戦争、なんていうことを言い出す人が居る現代。
俺にとっての希望は、
戦争ではなくて外国。
すべてを「なかったこと」にして
一からやり直したいと思うなら、
それは世界を壊すということではなく、
自分が異なる世界に行けばいいじゃないかと思う。